KAZUO
HANAOKA

GLASS ENGRAVING

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再来するオフィーリア

冨田康子
横須賀美術館 学芸員

花岡和夫のグラヴィール作品には、「アール・ヌーヴォー」に代表される世紀末ヨーロッパの装飾様式と、一脈通じるところがある。
1900年前後のヨーロッパの近代都市を優美な「自然」のイメージで彩ったそれらの装飾様式において、最もよく用いたモチーフが、花および植物であった。と同時に、それらと並んで欠かせないものが、独特のエロティシズムをただよわせた女性像であるだろう。
彼女たちの多くは裸身で、遠くうつろな目をもち、長い髪や流れる水といった線的なうねりの中に身をゆだねている。写実的な描写を基調としながらも、色濃く漂う幻想性は、それこそこの時代のあらゆる描写に――ヌードだけでなく、植物でも昆虫でも、つまりは何をモチーフとしたときでも――、くり返しあらわれる共通のトーンである。
花岡が描き出す「自然」のイメージにも、それらの同質の幻想性を感じ取ることができる。うつむきがちに咲く花々や、あるいは裸身の女たち。
とりわけ後者においては、ガラスという素材を水の物質感に重ね合わせることで、この世ならぬイメージは、いっそうなまめかしい世界を出現させている。むろん、いうまでもなく、「水の女」とは、あのミレーの描くオフィーリアに連なる典型的な「世紀末」モチーフである。
もっとも、花岡の手になる「世紀末」イメージは、ヨーロッパのそれと比べてはるかに清楚であり、あのような頽廃の匂いは希薄である。おそらくそれは、作家自身の造形感覚によるものであろうし、同時にまた、グラヴィールという、難易度が高く慎重な制作態度を要求する技法からもたらされた、造形上の特性でもあるにちがいない。いずれにせよ興味をひかれるのは、この作家が、「自然」をモチーフとしたエロティックで幻想的なイメージを追求し続けているという、まさにその点である。そういえば、近代日本の工芸の歴史において、エロスのあらわれをみとめることは案外むずかしい。「アール・ヌーヴォー」をはじめとする1900年前後の一連の装飾様式が、日本の工芸の展開に与えた影響は決して小さくないが、しかし、ことエロティシズムという点に関しては、両者の志向性は大きく異なっているように見える。それが、単純な嗜好の相違によるものなのか、あるいはまた、近代日本の工芸の歴史の中に、エロティシズムを別の次元に転移する機制が何か働いていたのか、ここはそうしたことを論じる場ではないが、ともあれエロスの不在という事態の中には、日本の近代工芸をめぐるさまざまな問題が含まれているはずだ。
そして、そのように見てゆくと、写実性と幻想性の共存する、謎めいた「自然」のイメージを、透明なガラスの中に出現させる花岡和夫のグラヴィールのしごとは、エロスの不在という近代日本の工芸の歴史への、密かな抵抗の身ぶりにも思われてこないだろうか。

オーナメント「芽吹き」 花器「月影II」
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